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森の音楽堂と失踪の記憶 ①

last update Last Updated: 2025-09-01 13:45:06

 カフェを後にした石場はエミリアの形跡を辿ることにした。

 いつもなら自宅に帰るところだが、今はそういう気分になれない。エミリアの失踪事件のせいで一日のリズムが狂ってしまった。今更、行ったところでどうにかなるわけではないが、気にはなる。どうせ家に帰ったって、何もすることはないのだ。

 記事によると最後に彼女が目撃された場所は夕霧山ということだった。石場は夕霧山に向かった。

 山のふもとに到着すると、石場は澄みきった空気に包まれた山道を見上げた。大吉山は神秘的な雰囲気を湛えており、木々の隙間から差し込む陽光が優しく辺りを照らしていた。彼は一息ついて、展望台へと続く道を歩き始めた。

 道は九十九折りに曲がりくねっている。足元には小石や落ち葉が散らばり、慎重に歩を進める必要があった。石場は道の両側に生い茂る木々の間を縫うように進み、時折、足を止めて周囲の景色を見渡した。遠方に幾つかの寺院が見える。

 小鳥のさえずりや木々の葉音が静かな山の中に響いている。春になると至る所から鶯の鳴く声が聴こえてくる場所だ。

「本当に長閑だ。このようなところで事件が起きたとは思えない」

 石場は自然が発する音に耳を傾けながら、エミリア・ハートフィールドがここで何を見て、何を感じたのかを想像した。彼女の最後の足跡を辿ることで、彼女の心の中に何があったのかを知りたいという思いが胸に迫ってくる。

 歩き始めてから十五分ほど経った頃、広場に到着した石場はそこでしばらく立ち止まって景色を眺めた。遠方には山々の絶景、そして眼下には町が広がっている。

「時間もあることだ。エミリアがここに来た理由でも推測してみるか」

 石場は深く息を吸い込んで新鮮な空気を肺に満たした後、再び歩き始めた。

「そういえば、ここでエミリアの演奏を聴いたな」

 一つの映像が頭の中に浮かび上がってくる。それは、かつて森の音楽堂でエミリアの演奏を聴いた日の出来事だった。

 彼女の演奏は心に染み渡るようで美しく、自然に囲まれた音楽堂の中で奏でられるメロディーは忘れがたいものだった。

 演奏者たちの背後には壁がなく、あたかも自然の中で演奏しているかのような舞台設計もこれ以上に素晴らしいものはない。どこからともなく鳥たちが集まり、旋律と共に口ずさむ。動物たちも音楽が好きなのだと感じた瞬間だった。

「本当に素晴らしい一日だった」

 石場はその時のことを思い出しながら歩き、そして、ふと足を止めた。

──どうしてエミリアは一人でここに来たのだろう。

 昼間なら何も問題はない。若い女性の姿を見かけることはよくあることだ。しかしエミリアが目撃されたのは、日が暮れかかる時間帯だ。通常なら怖くなって帰るのではないか。ここに来るとしたら自然に触れるか、音楽堂に行くくらいだが、それは日中に限られる。

 遅い時間帯となると……。

 誰かと会うためか……。仮にそうだとしたら、その相手は男だろう。暗くなりかけた山で女同士で過ごすのは不自然だ。

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